つづき

基本的には読書を「娯楽」だと考えている人達の間でも、その人達に対してのみ有効な「教養」というものも存在する(ある知識を前提にした作品を鑑賞する場合など)。その「教養」を当たり前のこととして、とらえることが完全に浸透したならば「教養主義」の完成である。
しかし、中途半端な「教養主義」はスノビズムの温床にもなりうる。「知識(教養)をひけらかしたい」「知識(教養)があることを評価してもらいたい」という俗物的な欲望は、「教養」の格差が前提として存在しなけれならないためである。
だが、そのような欲望は誰しもがもちえるものであって、そのこと自体は特に責められるべきことではないとも思われる(無自覚な場合はちょっとイヤだけど)。
そのような欲望を抱きがちな人間とはどいういったタイプに分類されるのであろうか。私の個人的な意見であるが、やはり読書というものを「徳」であると評価、認識しているタイプの人間にこういった傾向が(比較的多く)みられると考えている。
つまり「教養」のヒエラルキー構造を無意識のうちにつくっているような人間が、「本を沢山読んでいる自分(「徳」積んでいる自分)は偉い」という発想から、その構造の下位に位置する(と認識している)人間を軽んじるような態度をとるのではないかと。
それでも「そういう思想の持ち主なんだからしようがない」とある程度は納得する時もあるが。