読書を「業」ととらえるか、「徳」ととらえるか

自分以外の人間はいったい読書というものをどう評価しているのか、というのが最近気になって仕方がない。
それには「趣味」「娯楽」「教養」「手段」「目的」などいろいろあるだろうし、その評価によっておのずと読書にたいする態度も決まってくるものだと考えてはいる。だが、そのような評価や態度を決定するまでの過程に、どういった意思や志向が働いているのかを私は知りたいのだ。
「趣味」や「娯楽」という人はようするに読書を「本を嗜好する」ことだと捉えているのであろう。しかし、「趣味」が高じて、読書が「生き甲斐」になったり、「アイデンティティ」になったりするとややこしくなる。それはもう趣味とは言えなくなってしまうのだ。「趣味」であるうちは、読書はただの「快楽追究のための手段」であり、生活において占める割合も比較的低いが、「生き甲斐」や「アイデンティティ」である人間にとって読書(本)というものは、もはや「生活必需品」である。活字中毒者などもこれにあてはまると思うが、読書が「なくてはならないもの」という存在になった時点で、それは「趣味」という領域を逸脱している、と私には感じられる。そのような「なくてはならないもの」「生きていく上で必要なもの」という評価を読書にたいしてくだしている人間は、読書という行為を「業」であると感じていると思う。
「教養」だという人は多分、読書を通じて自分自身の知識や人間性を深めたい考えているのだと想像している。この場合、読書というのは「教養」を深めるという「目的」ための「手段」である。そこには己を研鑽せんがための読書をする、という志向が見出せるがゆえに、読書という行為に対する強い意思の存在を窺わせる。「趣味」で「教養」を深めるための読書を行う人もいるだろう。そこにはやはり「読書という行為に対する」意思が存在する。この「意思」の存在が重要なのであり、この「意思」こそが読書という行為を「徳」たらしめているのだと思う。(なぜなら人間というものは放っておくと、安きに流れるものであるから)