「デッド・ロブスター」霞流一
久々に国内本格ミステリ。今回のテーマは「エビ」であり、「エビ」に関するペダントリーに満ちた作風は毎度お馴染みの展開を遂げる(もちろん今回も○○が飛ぶ)。ストーリィテリングはお世辞にも上手いとは言えないし、ギャグもキャラもクドくて正直ついていくのが辛い部分もあったが、解決編のカタルシスはそれらの欠点を補って余りある出来になっている。
一般に霞流一という作家は、バカミス作家として知られている。たしかに彼の作風は一見、バカである。まず語り口がバカ、次に登場人物がバカ、最後にトリックがバカ、といった具合で、さながらバカの釣瓶打ちである。しかしそのようにバカな要素の裏には、堅牢なロジック、計算されたプロット、綿密に調べ挙げられたペダントリーといった理知的な要素も存在する。なぜ相反する2つの要素が同時に存在するのか、私にはそこに霞流一という作家の本質があるように思える。
以前書いたように、どうやら本格ミステリは本質的に「バカ」な要素を孕まざるを得ないようだ(詳しくは汎バカミス論の啓蒙書とも読める「バカミスの世界」を参照されたい)。その論自体はやや強引にしても、現代を舞台に本格ミステリを書こうすると、読者からは不自然に(または滑稽に)見えてしまうことが多いのは事実だろう(特に人死にが出ると)。なぜなら、現代を舞台にするとその「バカ」な要素が「浮いて」しまいがちになるためだ。現代において本格ミステリを成立させるためには、その不自然さを払拭する努力が必要になるのである(もしくは、開き直って多少の不自然さには目を瞑ってくれる読者のみを対象にするか)。
霞流一は非常に理知的な作家である。彼の作品の本質は「ロジック」と「ペダントリー」にあると言っても過言ではない。そのような左脳的な作家である彼が「バカ」を主要武器に用いる背景には、作品の完成度を高めるためのメタ認知が存在するのかもしれない。彼は現代において本格ミステリを成立させることの困難さを熟知している。そこで策を弄すことにした。その策こそが、前述の「バカの釣瓶打ち」である。すなわち本格ミステリ要素以外の「バカ」を小説内にまき散らすことによって、本格ミステリが必然的に内包してしまう「バカ」を埋没、無効化させているのだ。彼の書くミステリはその結果としての「バカミス」なのだ。
霞流一は「バカミス作家」である。しかし、それと同時に(もしくはそれ以上に)「ミステリバカ作家」「本格バカ作家」なのだ。彼の作品はまごうことなき「バカミス」である。しかしそれは彼が本格ミステリに対して誠実であったがために相違ない(ような気がする)。