「祈りの海」グレッグ・イーガン
ザコンっぽい男の子が活発な女の子に振り回されるSFばかり集めた短編集。ウソ。でもちょっとだけホント。
今回はイーガンについて語らせてもらいます。
その昔「SFが対象にする科学(SFの「S」の部分)は、自然科学から社会科学、そして人文科学的なものに移行していく(うろ覚え)」と言った偉いSF作家がいました。彼の名前はアイザック・アシモフといい、A・C・クラークやR・A・ハインラインと共にSF作家御三家とあがめ奉られる、もっとも有名なSF作家の1人であります。そんな御仁が仰った言葉が間違っているとは考えられません(←権威主義)。
イーガンは現代SFを代表する作家であり、その興味の対象は一見、ハードな科学理論、説明体系の構築に向かっているように見受けられます。しかし、最新鋭の科学知識や透徹なロジックを存在証明として立ちはだかる科学(SF)設定は、物語の登場人物のアイデンティティを、そしてその根拠となる基盤自体を徹底的に無効化させるための道具立てとして存在するのだと(読了すると)理解できるようになるのです。これって人文科学の分野に属する問題ですよね?というわけで、SFの進化過程は上記のアシモフの予言どおりになったわけであります。
イーがんの小説に登場する主人公たちはみんな己のアイデンティティについて思い悩みます。その姿は実存主義哲学にかぶれた文学青年のようでもあります。すれっからしの読者からすれば、そんな主人公たちは青臭すぎて直視にたえないものかもしれません。彼の小説の主人公、ひいてはその小説自体が青臭く見える理由としてあるいは「セカイ系」的な世界観をもっているところや、物語が最終的に「きみとぼく」に収斂してしまうところなんかも上げられるかもしれません。ではなぜそうなってしまうのか、考えてみましょう。
胃ー癌の小説のラストが「きみとぼく」になってしまう最大の理由とは何か。私の個人的な意見としては「アイデンティティの拠り所としてそれ以外のものが見つからなかった」からではないでしょうか。主人公には。あるいは作者にも。
人が自分のアイデンティティを保持するためには、その「イシズエ」となるものを必要とします。その「イシズエ」は人によって異なり、宗教、思想、哲学、理論、科学、家族、先祖、権威、芸術、価値観などというように、多様な形態で存在しえます。「イシズエ」の条件は「自分個人よりも、揺るぎのない、高次に存在する(と思える)もの」などです。
イーガンの小説内において主人公は、自らの拠って立つところである「イシズエ」を、自らの手によって破壊してしまいます。主人公はそれまで「イシズエ」であったものが欺瞞の上で成り立っていたという事実を受け入れ、その結果として新たな「イシズエ」を模索することになります。そのときにみつけた「イシズエ」が「きみとぼく」という関係性であり、それまでの自分を支えてきた共同体(社会)が「イシズエ」として機能しなくなったために「セカイ系」的な世界観が採用されてしまうのでしょう。
そして、イガーンの小説内に見られた「イシズエ」の喪失は、現実の世界でも同様に起こっているのです。
多分、現代の若者(若者に限らないけど、一応代表として)は今まで存在したような形での「共同体」にも思想や哲学が提示するような「世界観」にも「イシズエ」として魅力を見出せずにいて、そのなかで新たな「イシズエ」となるものを模索している状況なんでしょう。「自分探し」なんてその端的な例じゃないすか。
つまるところ、現代人(主人公や他の登場人物)がアイデンティティの「イシズエ」を「きみとぼく」的な関係性の中に見出いだす、というような小説をイガーンが書いた(考えた)ことと、現代において「セカイ系」的作品が隆盛をきわめていることには、同じような背景が存在しているのでしょう。
あと主人公の極端なナイーブさとか、主体性のなさとかも共通項ですね。ちょっと見、ハードボイルド(プライベートアイ?)ものっぽい短編でも妙に感傷的だったりするし。女性読者からは鬱陶しく感じられるかも。(←差別発言)