「セカイ系」と乙一

突然「セカイ系」という言葉が気になったので検索してみた。ついでにはてなのリンクにあった定義も読んでみる。それら情報を統合してみると、乙一作品が「セカイ系(小説)」として言及されることはまれであることがわかった。(話は変わるが)サイトを閲覧していく過程で「きみとぼく小説」という言葉を知った。その代表例として乙一の作品があげられているサイトを発見する。言葉の定義は最後までよく分からなかった。この二つの違いって何なんでしょう?
そんな疑問はさて置き、乙一作品がいわゆる「セカイ系」に含まれない理由を考えてみた。
はてなのキーワードに掲載された定義によると「きみとぼく←→社会←→世界」という3段構造の世界観に「社会」が欠落しているのが「セカイ系」の特徴らしい。ならば乙一作品が「セカイ系」と隔たっている所以はそこにあるのかもしれない。なぜなら多くの乙一作品の根底に「社会から逸脱、孤立してしまう個人」というテーマが見受けられるからだ。乙一作品における「社会」とは、主人公の所属する共同体(≒学校)であり、主人公はその「社会」から何らかの形で阻害され、逸脱してしまう(もしくは違和感を感じつつ所属している)。乙一が(作品内で)語るのは、この「逸脱」から再び「社会」に適応できるようになるまでの過程である(なぜなら乙一自身がそう言っている)。それらの作品で、自意識や身近な対人関係が世界観に直結するようなことはあまりない。
(これは穿ちすぎかもしれないが)「セカイ系」において「社会」が欠落する理由は、都合の悪い事実に目をつぶる為であろう。そのため「セカイ系」の世界観では「社会」の存在を認識できない(しない)。そのような世界観が支持される背景には乙一作品のような「逸脱」があると推測できるが、「社会」に対抗(とは限らないけど)するための手段が真逆になっている。
ちなみに「セカイ系」ライクな乙一作品もあったりする。短編集「ZOO」収録されている「神の言葉」のことだ。この作品の主人公はある特殊な能力を持った少年である。その能力とは「生物に語りかけることでその対象に影響を与えることができる」というもので、例えば植物に向かって「枯れろ」と囁けばその植物は枯れてしまう。人間に対してもその能力は有効であり、劣等感の塊である主人公は度々周囲の人間に対し能力を行使し、自分にとって都合のいいように世界を改編していく。それがどんどんエスカレートしていって世界は大変なことになってしまい、自分がしてしまった行為に恐れを抱いた主人公は自分自身に能力を用いることによって自分を欺瞞する。物語のラストで主人公は自分が欺瞞の世界にいること自覚しつつ、その世界が欺瞞であることに心の平安を見い出す。
肥大した自意識=世界観という構図はいかにも「セカイ系」っぽいが、やはりこの作品も「セカイ系」ではない。乙一作品の基本構造には「主人公が社会に適応する、もしくは救済される」というものが多いことは先程述べた。「神の言葉」の主人公も一応ラストで救済されている。しかし作者乙一は主人公の選択した行為を決して許していない。そのことは作品内に登場するある装置からもあきらかだ。その装置の存在によって主人公は己自身の業を常に意識しなくてはならず、そのくびきから逃れることはできない。なぜなら「社会」から逸脱した主人公は「適応」するための努力を放棄し、その能力(欺瞞する能力)によって「社会」自体を否定したためである。作者乙一はその行為が欺瞞であることを理由に主人公を断罪したのだ。そしてその「欺瞞」こそ「セカイ系」の基本構造なのだが(理由は上記の通り)「神の言葉」という作品は「セカイ系」には必須事項の「欺瞞」を否定した小説である。つまりアンチ「セカイ系」小説なのである。
もちろん乙一自身が「セカイ系」を否定するために「神の言葉」を書いたなどと主張する気は毛頭ない。ただ、全く逆の思想によって書かれた作品だとは言えると思う。斯様な作品を上梓する乙一が「セカイ系」とはあい入れぬ作家だということも。
以上私なりに「セカイ系」と乙一作品の性質の違いに付いて愚考した次第である。