デカルトの密室

デカルトの密室

SFミステリ。人工頭脳とロボットと哲学。
人間の意識の限界が出来るだけ分かりやすくかつある程度まで厳密に説明されており、その物理的な制約から解放される手段の発想及び描写もなかなか興味深かった。
ただ、そういった哲学的テーマと物語内で起こる事件(第一、第二の殺人)に本質においてのリンクはさほどなく(ケンイチの「意識」をフィーチャーすれば「リンクはある」のだが)、小説としての全体の印象は散漫(「リンクはある」がその他の構成要素が多すぎて焦点が定まらず、そういう印象を受ける)。
説明されない謎がいっぱいあって、本格ミステリ的構成(結末における一切の真相解明)を期待して読んでいた私は肩透かしを食った。
まぁ、テーマがテーマだけに収束していくミステリよりも拡散していくパニックSFの方が水が合うと判断したのかも。どっちにしても中途半端だけど。

クイーンファンにとってはニヤリとさせられる設定、文章、シーンが少々(隠し味程度)見られる。でもその一点で本書をファンに薦めるのは気が引ける。

(視点について)
小説の視点と意識(メタ認識)が同じアナロジー
本書には3つの視点がある。つまり神の視点、尾形祐輔の視点、ケンイチの視点の3つ。
このうち「尾形祐輔の視点」と「ケンイチの視点」は相互補完的な関係にあって、実際には誰が記述したのか一人称であっても決定できない(冒頭の記述にあるように)。
神の視点については、いわずもがなだが、誰の記述でもありうる。
(本書がメタテキスト(たとえば作中作などの)であるかどうかも決定できないのだけど)
神(三人称)の視点からみた「客観的世界」と尾形祐輔やケンイチ(一人称)の視点からみた「主観世界」の2つの世界を無意識の内に規定してしまうのが人間の認知構造であり小説の宿命なのだろう。
本書の構成はそのアナロジーを「意識」して決定されたんだと思う。