「手掛かり(伏線)」と「論理」

(注:以下の文章もまたみくしの日記から転載したものである)

本格ミステリにおける「手掛かり(伏線)」と「論理」について考えてみようと思う。
本格ミステリは一般に、作品内に散りばめられた「手掛かり(伏線)」をもとに探偵が真相を「推理」して事件が解決する、という構造を持っている。
しかし探偵は手掛かりから真相を導く際、純粋に論理に頼っていると言いいがたく、推理された「真相」もそれが唯一無二のものであると規定できるほどの説得力もないものが多い。
したがって、せいぜい「現状の手掛りに矛盾しない仮説」程度の強度しかない論理で真相を看破できてしまう、という矛盾が生じる。
矛盾の解決法としては「探偵は予め真相を知っている」という前提を立てればよいのだけど、それだと法月綸太郎説(だったっけ)になっちゃうよ。なって悪いという法もないが、なんとも座りの悪い説なのでここではとりあえず容れないことにする。
(この「知っている」とか「本質直観」に頼らない新説を構築することは難しいので保留して、「なんでそうなるのか」のみに絞って考えてみる)
要するに作品中で示される「手掛かり(伏線)」を帰納しても、探偵によって提示される真相にたどり着けるとは限らない。なぜなら本格ミステリにおける手掛かりとは、(作者の手によって)事件の解決から逆算された真相の断片だからだ。
真相を演繹したものが手掛かりならば手掛かりを帰納すれば真相になるかというとそうではなく、本格ミステリにおける手掛かりのほとんどは解決(犯人の特定など)のための必要条件ではあっても十分条件ではないため、「推理」によって示された真相は純粋に論理によって裏打ちされた絶対的な、唯一無二の真実ではありえないのである。
この問題の解決策としては「手掛りを全て集めると(帰納すると)真相がわかる」ようにすればいい。
つまり手掛りが真相の必要十分条件であるような作品ならば問題はないのだけど、果たしてそんな作品を書ける人間がミステリ界に存在するのだろうか?