夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社文庫)

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社文庫)

ネタばれありなので注意されたし。




講演会があったので再読してみた。
高校生のとき以来くらいに読んだのでかなり細部を忘れていたのですが、キュビスムの理論にいたっては「もしかしたら読んでなかったのかも」ってほど憶えてませんでした。流石に基本的なプロットとあのトリックは印象に残っていたので忘れようにも忘れられませんが。
で、読んでみて思ったんですが、桐璃が二人いる伏線ってちゃんと最初から張られていたんですね。白いワンピースとかだけじゃなくて、会話の脈絡が一方ともう一方だと違っていた。
烏有に桐璃が(パトリク神父による首切りに関する)推理を披露する場面。実際に起こったことを(探偵役でもない)桐璃が話すことによってしか読者に対して説明されないのだが、これって本格作品だとかなり珍しいよね。麻耶は「木製の王子」でもうだつの上がらなそうな会員にトリックを解かしたりしてるけど、開陳される推理の妥当性っていうのは作者の恣意性如何っていう立場(だから、メルカトルは「銘」探偵なんでしょ)からすれば、もはや読者が(登場人物の)推理を信ずる根拠ってのはなくなっちまうんではないか。まったく麻耶はこういうところがえげつねーぜ。
副題の「PARZIVAL」ワーグナーの楽劇のタイトルであり主人公。作中の説明によると、無知ゆえに救われる主人公の話らしいが、メルカトルによって真相を知らされた烏有はもはや無知な「PARZIVAL」とは言えないわけでつまり烏有に訪れるのはハッピーエンドではないのだな、なんて考えたりした。
あと「和音」という名前(言葉)自体にはなんか意味があるのかのう。和音=わおん=コード。『「本格」は「コード」に支配されている』。なんちゃって。
最後に。絶対性の保証としてのパピエ・コレってのはやっぱり探偵のメタファーなのかね。
分析的キュビスムのアナロジーだと絶対的なものが二つ(以上)出てきてしまうってのは多分「本格における絶対者はだれか?」という問いに繋がってくるもんだし。作者が違う次元から保証することで探偵(対象物)の絶対性が揺らがない、と。でも浮いちゃうんだどね。